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【BUDDHA BRAND】メンバーやDEV LARGEの死因・NIPPSとの不仲説まとめ

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時は1989年、ニューヨークの地で運命的に出会った4人が、ヒップホップという当時新鮮なカルチャーに触れて『うわさのチャンネル』というユニットを組みました。

やがて『BUDDHA BRAND(ブッダブランド)』として1995年、満を持して日本に活動の拠点を移し本場のヒップホップ息吹を逆輸入することになります。

当時のミュージックシーンやユースカルチャーに多大過ぎる影響を与え、すぐさまレジェンドとして君臨していったBUDDHA BRAND。

メンバーそれぞれのプロフィール、思いがけなく短かった活動キャリア、そして中心人物の突然の訃報、残されたメンバーの現在の姿や新しい方向性などを調べてみました。

この記事では、Buddha Brandの始まりから、メンバープロフィール、活動キャリアを中心に、未だ色褪せない現在までの足跡をご紹介します。

BUDDHA BRANDのメンバー

 

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1980年代末にニューヨークで出会い、90年代中頃に日本に活動拠点を本格的に移したヒップホップユニット『BUDDHA BRAND(ブッダブランド)』のメンバーは3MC、1DJの以下4名になります。

  1. DEV LARGE
  2. NIPPS
  3. CQ
  4. DJ MASTERKEY

それぞれのプロフィールについてご紹介します。

DEV LARGE

MCネームDEV LARGE(デヴ ラージ)
本名今 秀明(こん ひであき) 愛称:ヒデ、コンちゃん
生年月日1969年11月24日(2015年5月4日逝去/享年45歳)射手座
出身東京都渋谷区代々木

DEV LARGEは、小学4年時に親の転勤にて家族で渡米、中学卒業までのおよそ5年ほどニューヨークで暮らしています。

その当時のヒップホップカルチャー体験が礎となり、日本に戻って高校を卒業後、音楽業を生業にする夢を胸に秘めて再び渡米しました。

あまり知られていませんが、D.LはDJ PMXと親交が深く、1995年に「DS455 feat Dev Large」として、日本初の横浜WEST COAST HIPHOPを開催するのに貢献しています。

日本とアメリカとのギャップ

小学高学年から中学卒業までの人格形成期といわれる多感な時期に、アメリカに渡りアメコミやヒップホップのカルチャーに直接触れました。

レコード収集を開始するものの、高校入学時に日本に戻るとヒップホップの話題ができる友人に恵まれず、失望を感じていたそうです。

NYの日本食レストランでバイト

高校を卒業すると意を決して再び渡米。

ニューヨークの日本食レストラン「れんげ」にてアルバイトをしながら音楽で生きていくチャンスをうかがっていました。

客として来ていたMASTERKEYと知り合い、そこからCQ、NIPPSを紹介されていって、のちのBuddha Brandのメンバーが固まりました。

MCネームの由来

ストリートスラングに[PHAT]というフレーズがあります。

– Pretty Hot And Tempting -「なんて熱くて魅力的なの」という意の頭文字をとったもので、文字通り「めちゃめちゃイケテル」時に使われます。

その同じ音読の[FAT]を日本語に訳し、デブ→DEVと変換しました。

LARGEに関しては、ニューヨークにいた同時期に活躍していた『Main Source(メインソース)』のMC Large Professor(ラージ プロフェッサー)のLARGEを引用。

LARGEには、巨大な偉大なといった感嘆の意もこめられていて、DEVとLARGEを合わせたのがMCネームの由来になっています。

ラッパー以外の活動

BUDDHA BRANDのMC、リーダーとして活動するなかで、BUDDHA BRANDの作品、全てのプロデュースを担っておりジャケットや、イベントフライヤー、Tシャツ等のデザインも手がけたそうです。

多肢に渡る活動はとどまらず、自身のレーベル「EL DORADO RECORDS(エルドラド レコーズ)」を展開、『LUNCH TIME SPEAX(ランチタイムスピークス)』を見いだしてプロデュースをしました。

ほか、DEVLARGE THE EYEINHITAE名義にて「KUROFUNE 9000」というインストアルバムを皮切りに、BUDDHA BRANDのリーダー、ラッパーというイメージを壊したいという想いを強くもちながら、数々のアーティストとの客演や楽曲提供を続け、D.L、DJ BOBO JAMESなど幾つもの別名義を使いわけながら活躍しました。

K DUB SHINEとのBeef


2004年6月19日。最初はDEV LARGEと思われる声で、『キングギドラ』のMC、K DUB SHINEをディスした曲、「ULTIMATE LOVE SONG」がインターネット上にアップされました。

すぐに業界関係者を中心に話題にのぼると、3日後、DEV LARGEがラジオ番組に出演、同曲を公開し改めてDEV LARGEによるディス曲と判明しました。

発端は、K DUB SHINEが同年7月リリース予定のアルバム「理由」に収録された曲「来たぜ」のリリック

「~ 人に聞かしたミュージックセミナー そんとき初めて出会ったブッダ バトルは俺が完全に食った・・・」

とあり、人伝えにその一節の内容を知ったDEV LARGEが激高。

日頃からK DUB SHINEの言動に不信感を抱いていたため、遂にディス曲を制作したようです。

名指しでディスを受けた、K DUB SHINEは、「来たぜ」の最後のリリック 「・・・確かそんな感じだったような記憶」でもあるように、特にBUDDHA BRANDとの当時のアメリカでの邂逅に他意はなかったようですが、自他ともに認めるラッパーからのディスとしてアンサーソングを発表することを決意。

「1 THREE SOME」(※K DUB SHINE本人は、これはアンサータイトルではなく送信タイトルの誤りと言及)最初にDEV LARGEが公開した10日後の2004年6月29日に同様にインターネット上にアップされました。

K DUB SHINEのアンサーに間があったことと、発売前のアルバム「理由」の告知が含められたことに納得しなかったDEV LARGEは2004年7月1日、さらなるディス曲「前略ケイダブ様」をインターネット上で発表。

K DUB SHINEに対し文句があればアンサーソングを返し、自身はいつでも受けると宣言するものの、当のK DUB SHINEはアンサーを返さず、事実上このラップを通したビーフは終結しました。

当時、YOUTUBEといったSNSがインターネットでまだ浸透していない時代に(※バズるという言葉すら生まれていない)、知名度と実力が伴った現役ラッパーどうしのビーフは、ヒップホップリスナーの注目や関心として否応なく話題にのぼりました。

NIPPS

 

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MCネームNIPPS(ニップス)
本名木村 秀己(きむら ひでみ) 愛称:デミさん
生年月日1964年6月7日 双子座
出身東京都台東区

NIPPSは、小学校でニューヨーク、高校(自主退学)でカナダ、20歳で渡米と多感な時期を英語文化圏で過ごし、その生活スタイルが自身のリリックにも色濃く反映しています。

DEV LARGEとの出会い

ニューヨークで音楽業への糸口を探っていたDEV LARGEが、MASTERKEY、CQ、最後にNIPPSと出会い(3人はいずれもDEV LARGEより5歳上)、さらにNIPPSのラップスタイルに大きな衝撃を受けたそうです。

NIPPSの持ち味としていた英語の言い回しを日本語に直訳してラップフロウにあてはめていく手法(BUDDHA BRAND本人達はbroken wordsと呼ぶ)を目の当たりにして、DEV LARGE自身もラッパーを志すきっかけになったようです。

それまでは、ひとり歳の離れたDEV LARGEは、ブッダブランドの裏方的な立場を模索していたのですが、一転、NIPPSとの出会いによりモチベーションや目指すイメージが開花していきました。

不可解なリリックやパンチラインの魅力

NIPPSの魅力はなんといっても突飛な言動や不可解なリリック、記憶に焼きつくパンチラインの量産ではないでしょうか?

例えば、ステージ上で唄いながらの殺虫剤スプレーの噴射(1996年/さんぴんCAMP)や、「~知ったふりしろよ 特殊な技能ALLRIGHT」(ILL伝導者)のリリックなど、~Act Like You Knowという、当時アメリカで影響力のあった『ウルトラ・マグネティックMC’s』のキメ台詞を和訳で転用するセンスに、いかれた言語感覚、逆輸入、黒船というへの代名詞が生まれました。

BUDDHA BRANDの代表曲である「人間発電所」の名フックである

「~ 気持ちがレイムじゃモノホンプレイヤーにになれねえ 寺の坊主のようスネアドラムス 木魚お経のBuddha style ライムフロウ」

は、元々、NIPPSのリリックが採用されたものになります。

名前の由来

もともとNIPPS自体も、聞いていたレゲエミュージシャン『Nigger Mikey(ニガー・マイキー) 』が黒人蔑称のニガーという言葉をあえて使用していることに面白みを感じ、日本人蔑称のJAP(ジャップ)ではなく、NIPPON(ニッポン)からNIPPSという名称を編み出しました。

ほか、「飛葉飛火」「HIBAHIHI」「緑の5本指」など、当時全米でもイリーガルの対象であった大麻を揶揄するような別呼称も、規格外(boasting)を連想させるのに有効とあって、視的、音感、語呂の良さをアレンジして使用していました。

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CQ

 

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MCネームCQ(シーキュー)
本名平栗 隆(ひらぐり たかし) 愛称:クリちゃん
生年月日1964年10月27日 蠍座
出身東京都大田区蒲田

CQはDJ MASTERKEYと地元小学校の同級生です。

お互い自営業の生まれ(CQの実家は工務店)であったり、高校は共に野球部であったりと、地元蒲田で思春期を共有して過ごしていました。

音楽体験も蒲田のディスコやライブハウス、レコードショップ、同郷出身のシャネルズ、ラッツ&スターなどから始まったそうです。

ラッパーとしての評価

ブッダブランドの無敵の3本マイクとして並ぶCQは、NIPPSやDEV LARGEに比べて、外見、言動などが表だつことが少なく謎めいていたりしますが、同業者からの評価はとても高いです。

メンバーのNIPPSからは「ヒップホップの基礎が最初からできていた」と厚い信頼を寄せられています。

m-floのVERBALはCQのリリック

「~ ILLのコ誕生 一日一生 UFO FLOW 流れる光のよう」(ILL伝導者)

に自分達のグループ名が連想の果てに生まれたとも公言しています。

ブッダブランドを経て、MAKI THE MAGIC、ILLICIT TSUBOIというまたしても異能のアーティストと共に『キエるマキュウ』というユニットを組み活躍しました。

プライベートの目撃談によれば、クラブで女の子に声をかける際に「俺、昨日まで冷凍されてたんだよ。早く抱きしめてくれないと凍っちゃうよ!」(ダースレイダー談)と愛くるしい一面もうかがえます。

ブラックミュージックへの想い

DEV LARGEのブラックミュージックへの傾倒がリスナーの間では広く知られていますが、CQもかなりの音楽通のようです。

ニューヨーク時代は、クラブでDJをしたりマネージャーをしたりして生計をたてていました。

大手レコードショップの企画による 【無人島 ~俺の10枚~ CQ 編】では、ジェームス・ブラウン、スティービー・ワンダーといった大御所から、ドナルド・バード、アイザック・ヘイズなどブラックミュージックへの愛聴感がうかがえます。

DJ MASTERKEY

 

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DJネームMASTERKEY(マスターキー)
本名矢沢 正樹(やざわ まさき) 愛称:やーちん
生年月日1964年8月12日 獅子座
出身東京都大田区蒲田

DJ MASTERKEYとCQは地元小学校の同級生です。

お互い自営業の生まれ(MASTERKEYの実家は美容院)であったり、高校は共に野球部であったりと、地元蒲田で思春期を共に過ごしていました。

卒業後、将来的に家業を継ぐか考えあぐねる時分に、CQより「まず行ってみよう」と誘われ渡米、ふたりでニューヨ-クで共同生活をしていました。

NIPPS、DEV LARGE との出会い

慣れないアメリカ生活のなかで、ホームシックな気分をかかえながら、日本語に触れるために、「ズームイン!朝」という日本の番組がロケをしているロックフェラーセンターの現場に毎週顔をだしていました。

そこで番組のAD(照明)をしていたNIPPSと知り合います。

また、お気に入りの日本食レストランに通ううちに、働いていたDEV LARGEとも知り合いました。

DJ MASTERKEYの誕生

共通の趣味であるヒップホップを通して意気投合したBuddha Brandの4人のなかで、ずば抜けてDJが上手かったのがMASTERKEYだったそうです。

異存なくDJを任命されました。名前の由来は本名の「まさき」から寄せられたものです。

別名義「ROCKSMITH」とは

別名義に「ROCKSMITH」というのがあります。

これは当時ニューヨークでクラブDJをしていて、ダンスフロアを確実にロック(ROCK)していたことと、鍵職人(LOCKSMITH)を掛けたものです。

自身が立ち上げたアパレルブランドの名義で使用しています。

素行ならびに交友関係

MCではないので、あまり人物像にスポットがあたることがありませんが、NIPPSはMASTERKEYを「野人」と称しています。

ニューヨーク時代、エキセントリックにも通りを上半身裸で歩いていたそうです。

また、交友関係も厚く、DJ KAORIとはニューヨーク時代から交流がありました。ほか、キングギドラの面々ともそれぞれ親交があり曲の制作をしております。

渋谷にある老舗のクラブHARLEMにて、「DADDY’S HOUSE」というイベントを主催していました。

多くの日本人ヒップホップアーティストの後押しや本場アメリカのアーティストの招聘に力を注いできました。

BUDDHA BRANDの過去や経歴

 

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1980年代末、何かを探してニューヨークに渡った若者4人が、ヒップホップという表現をもとに一致団結し、1995年、満を持して帰国。

翌96年夏、日比谷公園大音楽堂にて開催された伝説的イベント「さんピンCAMP」でトリを務め、順風満帆とも思えた活動は半年も経たないうちにメンバー間で衝突を起こすまでになっていました。

いまだにヒップホップレジェンドとして色褪せない、BUDDHA BRANDの活動経歴を紹介します。

1980年代末。うわさの・・・

ニューヨークで意気投合した日本男児の4人は、DEV LARGE以外の3人が幼少時に影響を受けたバラエティ番組「うわさのチャンネル」(和田アキ子、せんだみつお等、出演)の名称を、そのまま自分等のヒップホップユニットに起用しました。

ここからすでに、ヒップホップの特徴でもあるサンプリング精神が生きています。

改名『BUDDHA BRAND』

1990年に『BUDDHA BRAND』に改名。

NIPPSいわく、最初は近所の白人のおばあちゃんが散歩していたプードルがそそうをして「NUM BRAIN!!(どんくさいわね)」と叱りつけていて、その調子が面白く聞こえた事。

DEV LARGEが、ブルックリンの現地のラッパーに、MCネームは「Fury The Fat Buddha(激アツにいかれている仏陀)」なんてどうだ?って言われたという会話から、『NUMB BRAIN BUDDHA BRAND』というユニット名に改めようとしました。

それも陳腐すぎる(corny)という反応があったため、シンプルにBUDDHA BRANDで落ち着いたようです。

本場ニューヨークでの生活やスラング、交わされる創作の空気感がフレッシュに伝わってきます。

ブッダキャンプとは

その頃、ニューヨークでお互いの家を頻繁に行き来して活動をしていたBUDDHA BRANDは「FUNKYMETHODIST」を収録したデモテープなども勢力的に制作をしていました。

DEV LARGEは、日本に一時帰国した際に大手音楽レーベル、cutting edgeの制作関係者や所属アーチストであったECDらに積極的にアプローチをしていました。

その機縁より、『MICROPHONE PAGER』(MURO、TWIGYらが所属)のメンバーらがニューヨークを訪れるようになります。

噂が噂を呼び、BUDDHA BRANDの音楽をディグする姿勢に共感を覚えたDJ達(DJ YUKIJIRUSHI等)との現地での活動がもっぱらブッダキャンプと称されていました。

激動の1995年から1996年

1995年に満を持してBUDDHA BRANDの4人が帰国。

1996年5月、cutting edgeよりシングル「人間発電所 」をリリース。

メジャーデビューより代表曲がスマッシュヒットしました。

同年7月に開催されたヒップホップイベント「さんピンCAMP」(日比谷公園大音楽堂/主催ECD)にてトリを務め、人間発電所を満場の観客と熱唱。

ヒップホップレジェンドの地位を不動のものとしました。

その後、「黒船」(ミニアルバム)「ブッダの休日」(シングル)と話題作をたて続けにリリースしましたが、日本での急激な変化、制作のスピードやスタイルに、メンバー間で音楽観の違いが生じてきたようです。

広がる個人活動

1998年、DEV LARGEは自身が認めるアーティストを世に広めることを目的として、レコードレーベル「EL DORADO RECORDS」を設立しました。

その後、別名義によるDJ、トラックメイク、プロデュース業を精力的に行っています。

一方、BUDDHA BRANDは2000年にミニアルバム「DON’T TEST DA MASTER」、同年ベストアルバム「病める無限のブッダの世界 BEST OF THE BEST(金字塔)」を発売したのち、4人での活動は事実上休止となっていきました。

NIPPSは1998年にシングル「Island」をリリースするのち、個人、客演活動を厚くします。

CQは1998年に『キエるマキュウ』を結成、MCとしてユニットの活動の場を移しました。

DJ MASTERKEYは、1997年よりヒップホップによるマンスリーイベント「DADDY’S HOUSE」を渋谷のクラブ、HARLEMにてDJ KENSEI、DJ YUKIJIRUSHIらと共に開始しました。

続いていた交流と突然の別れ

2005年には、BUDDHA BRANDのMC3名によって『ILLMATIC BUDDHA MC’s(イルマティック・ブダ・エムシーズ)』を改めて結成。

シングル「Bait 2005」を発表し、堅い絆を世に表明しました。

時は流れ、2015年5月4日、DEV LARGEが自宅にて急逝。

オリジナルメンバーのBUDDHA BRANDはここで完結するかと思われましたが、2019年5月5日、再始動を急遽発表。

10月にはDEV LARGEが録りためていた当時の音源を再編集し、ライブでしばしば叫ばれたパンチラインを冠名にした「これがブッダブランド!」が再始動後初のアルバムとしてリリースされました。

DEV LARGEの死因は?

 

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D.L 命日 【Dev Large(1969/11/24〜2015/05/04)】from Buddha Brand

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2015年5月4日早朝、DEV LARGEが突然亡くなりました。

それまでも、以前より痩せている姿から体調不良が伝えられていました。

レジェンドアーティストの急逝により、ドラッグによるオーバードーズ説や自殺説など根拠のない噂がネット上にも流れましたが、長年煩っていた持病によるものであったみたいです。

日本中のヒップホップヘッズ、音楽関係者、MUROやZEEBRAなどの近しい友人からツイッターを通しても哀悼のメッセージ(Rest in Peace)が寄せられました。

NIPPSとDEV LARGEの不仲説

1996年7月「さんぴんキャンプ」にて圧倒的存在感を示したBUDDHA BRANDに、その年の大晦日、川崎クラブチッタで行われた「鬼だまり」で思いがけない事件が起きました。

出演していたBUDDHA BRANDのなかにNIPPSの姿はなく、DEV LARGEとCQが立つのみ。

やがて客席からステージに登るNIPPSに対して何故か詰め寄るDEV LARGE。この顛末には、ふたりが抱える葛藤や主義主張が入り混じっていました。

ニューヨークで出会った兄弟「NIPPSとDEV LARGE」

5歳下のDEV LARGEはNIPPSのことを出会った当初から先輩、兄貴として慕っていました。

出会った頃のまだ10代のDEV LARGEに、NIPPSはニューヨークのカルチャーを通して親交を深めていたようです。

実際に、NIPPSの即席に書いた4小節のリリックに心打たれてDEV LARGEはラッパーを目指すようになりました。

BUDDHA BRANDがcutting edgeからメジャーデビューする際も、活動が束縛されるのではないかと心配したDEV LARGEに、PUFF DADDYのようにお金をかけて制作する事の例を挙げて、背中を押したのもNIPPSでした。

DEV LARGEが日本に一時帰国して持ち帰ってきた、ほかのアーティストの音源を聞いてもNIPPSは自分達のスタイルがオリジナルなものであることに自信を持っていました。

さんぴんキャンプの成功からの鬼だまりの衝突

メジャーレーベルからファーストシングルをリリース。

逆輸入という代名詞を看板に、「さんぴんキャンプ」の出演。知名度は加速度的にのぼりメンバーの日本での生活は一変しました。

NIPPSはニューヨークでの生活のように近所を行き来するような間柄を望んでいましたが、次第にスタジオでしか会えない時間ばかり増えていきました。

DEV LARGEは、常にBUDDHA BRAND名義で出される作品は過去のものを越えるものでなければいけない、と決意してプロデュースにも方向性に縛りを設けていきました。

そんななかDEV LARGEは、合宿と称して寝泊りをともにしたスタジオ制作を企画しました。

しかし、NIPPSは合宿即座に「合コンがあるから」とのたまって現場から脱走します。

NIPPSの自由過ぎる態度に、DEV LARGEはプロ意識が足りないと諭していきますが、NIPPSが歩み寄ることはなく、業を煮やしたDEV LARGEはNIPPS抜きのBUDDHA BRAND編成に取り組みはじめました。

その年末大晦日に開かれる「鬼だまり」に新生BUDDHA BRANDのステージングの照準を合わせていたDEV LARGEの前に、当日、遊びにきていたNIPPSは周りの出演ラッパーから何気なく登場を打診されて、客席から駆け上るアドリブを敢行。

NIPPSらしいフリースタイルにDEV LARGEはライブ中に激高するというハプニングが勃発しました。

その後のふたり

BUDDHA BRANDとしてのふたりは、その後目立った活動をすることなく、徐々にほかのメンバーもふくめ個人活動にシフトを移していきました。

そのうえでDEV LARGEは、2001年にリリースされたNIPPSの楽曲「GALAXY PIMP 3000」、「GOD BIRD」に対して、制作、客演に携わっています。

巷ではふたりの不仲が囁かれたりもしましたが、実際にはお互いの音楽に対する人生観が、はっきりしたうえでの向き合いかたであったことと感じられます。

BUDDHA BRANDのオススメの音源

人間発電所

永遠のクラシックと呼ばれ、もはや金字塔オブ金字塔とまで昇華された、BUDDHA BRANDのファーストシングル。

窪塚洋介や晋平太など自他共に認めるブッダブランドヘッズ達は、全パート全リリックをそらで唄えるほどのようです。

当時も今もクラブでかかると手があがるスマッシュヒットな一曲です。

ブッダの休日


英語っぽい歌詞が特徴といわれる安易なくくりに対抗して制作されたシングル。

型にはまることを嫌ったBUDDHA BRANDの面々が、イル(ill)でチル(chill)というテーマを基に日本語の響きを意識してつくられたスローソングです。

DON’T TEST DA MASTER


さんぴんキャンプの衝撃から数年。

新世紀2000年にリリースされたミニアルバムからの表題曲。

DEV LARGEがEL DORADO RECORDSを設立してさらにプロデュースに磨きがかかり、凄腕のメンバーが再集結されて放たれた一曲です。

Codeな会話


DEV LARGE亡きあと、BUDDHA BRANDの音源は完全にレガシーとして永久に遺るものと思いきや、2019年に過去の音源から再編集、および新録されてお蔵だしされた新生BUDDHA BRANDのシングル。

BUDDHA BRANDを聞いて育ったヒップホップヘッズ達が歓喜の声をあげた問題作です。

まとめ

奇跡の逆輸入来日を果たし、日本のヒップホップの草創期から黎明期にいたるまで存在感と指針をむきだしに見せつけていったBUDDHA BRAND。

あれから四半世紀ほど経ったいまでも、メンバーの活動に微塵の迷いなく、ブッダブランドヘッズ達の期待に応え続けています。

CQとNIPPSは『Buddha Mafia(ブッダマフィア)』というユニットを結成して、ネットラジオでの配信アーカイブ活動にも手を広げています。

DJ MASTERKEYは、オリジナルイベントの「DADDY’S HOUSE」を不定期にて開催。晋平太といった若い世代のMCやDJたちと活動を共にしています。

日本語ラップのクラシックと表現されて久しいBUDDHA BRAND。

無敵の3本マイクが揃い踏みすることは叶わなくなりましたが、これからもDEV LARGEの遺志やBUDDHA BRANDの意義を継ぐヘッズ、ファン、リスナー達によって、燦然と光輝きながら語り継がれていくことでしょう。

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